前回に引き続き、自分の無力ゆえの悲しい思い出です。
まだまだ、教員時代は今のように大学の推薦も少なく
ましてやAO入試なんて(自分の時にも)なかった時代。
そんな時代だから、指定校推薦が4年生大学から来るのは
結構、貴重なことだったのです。
某S大学の指定校推薦に3名の枠が来ていて、これは大事な枠。
しかし、1枠だけ希望が出てこないということになって
自分の担任のクラスで、とても優秀な子がいたので
「どう、この枠に応募してみない?」と気軽に声をかけてしまったんです。
彼女は自分の希望していた学部とは違ったのでとても悩んだそうですが
私の安易な勧めで、家族で話し合った結果、その推薦を
受けることにして、楽々入学しました。
しかし、やっぱりやりたいこととは違いすぎたのでした。
しばらくして、「どうしても合わないのでやめたい」と連絡が
あり、私は退職したあとだったので、彼女と一緒に
神奈川の元の勤務先に行って、進路指導の先生にお詫びに
行きました。
(退学するということは、後輩に指定校枠が来なくなる
可能性があるのです)
その後、彼女は自分の進路を見極めることができなくなり
とうとう、最後は自分で亡くなってしまいました。
私があの時、彼女の本当にやりたいことをきちんと考えてあげて
いたかというと、やっぱりそれは違ったなと思うのです。
初めての3年生の担任で、1人でも早く進路が決まると
精神的にもほっとするという自分の弱い面も確かにあったし
学校としてせっかくの指定枠をなしにするわけにはいかないという
学校側の事情も考えてしまい、
本当に一番、一番、大切なのは彼女がこれからの人生を
どうするかということだったはずなのに、
それをちゃんと優先順位1番にしていたのかというと
自分の中の答えは情けないものになります。
彼女が亡くなったのは、自分のせいだというような
おこがましい気持ちもありませんが、それでも、十分に
力になれていなかった自分を責めたい思いです。
葬儀でのお母さんの泣き叫ぶ声が今でも、よみがえります。
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